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パクリ論法の穴 |
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今の時代を席巻している言葉の一つに「パクリ」なるものがあります。 私はここで、作品におけるパクリの是非については論述するつもりはありません。 ここで私が取り上げるのは、「パクリ」と罵倒するその人の価値観および思考回路についてです。 ■パクリ論法の欠陥 さて、このパクリ論法には、根本的な欠陥があります。 だから、ある作品において、パクリ論者の知識の範囲外にある作品からパクられたネタが作中にあったとしても、それに気付くことはなく、パクリを指摘できないのです。 つまり、パクリ論法を使うほど、それは作者の悪事の暴露というより、パクリ論者のオタク知識の羅列になるだけなのです。 ■何故パクリ論法が流行しているか? では、何故このようなパクリ論法が流行しているのでしょう。それは、オタク知識さえあれば誰でも脳みそを全く使わずにできるお手軽論法だからです。この論法は実に単純な形をしています。「●●は△△のパクリ!」あとはこれに機械的に作品の名前を当てはめ、作者への悪口を書き殴ればいいだけです。たったこれだけで、容易に自分が評論家になったような気分にひたることができます。 パクリ論法は、即席評論家作成キットです。 ■パクリ=悪? また、パクリ論者が普遍の真理のように抱いているのが「パクリ=作者は悪、作品は駄作」という価値観です。彼らはパクリを病的に嫌っています。 彼らの論理「作品にパクリがあれば作者は悪で、かつ作品は駄作である」を論理的にひっくり返してみると、「作者が悪でないか、作品が駄作でなければ、その作品にパクリはない」となります。凡人や善良な作者が作った凡作や傑作にはパクリは無いそうです。悪質な作者が作った凡作や傑作にもパクリは無いそうです。どだい大雑把でいい加減な根拠ですから、パクリ論法は作品を評価する手段にはなりません。 ■パクリとオリジナルの境目 ところで、彼らにとって「パクリ」と「オリジナル」とは一体何なのでしょうか? そして、その境目はどこにあるのでしょう?
テレビアニメ『明日のナージャ』第27話「空飛ぶケンノスケ!」。この回には、ナージャらが乗っている、大砲の砲弾の形をしたロケットが宇宙を飛び、それが「顔のある月」に突き刺さり、月が顔をしかめるというシーンがあります。 これは、ジョルジュ・メリエスの映画『月世界旅行』のパクリです。 しかし『月世界旅行』を見た事があり、かつ『明日のナージャ』の第27話を見た事がある人の数は、皆無に等しい程度しかいません。何故なら、『月世界旅行』は百年前(1902年)につくられた僅か10分未満の映画であり、テレビで放映されることはまずありませんし、ビデオでレンタルする人もまずいません。よってアニメオタクはおろか、一般人にすら知名度が低いです。それを見た人たちと、『明日のナージャ』の該当部分を見た人の層(女児、女児の母親、アニメオタク、その他)を重ね合わせようとしても、ほとんど重なるはずがありません。 Googleの検索で"明日のナージャ
月世界旅行"と入力してみると、実質ヒット件数(つまり、ナージャに月世界旅行のシーンが登場したことを記述しているページ)は私のサイトを除くとたった3件でした。第27話のサブタイトルの一部を用い、"ケンノスケ
月世界旅行"と検索しても実質2件でした。 それから、『明日のナージャ 2ちゃんねる過去ログ倉庫』において、第27話放映日、当日以降の掲示板や、最近の掲示板を「月世界旅行」や「パクリ」で文字列検索しても、1箇所も該当しませんでした。念のためにアンチスレッドの当日以降の書き込みも同様に調べて見ましたが、やはり全くありませんでした。 パクリを知っている人の絶対数が極端に少ないのですから、ナージャスタッフへの糾弾など起ころうはずもありません。10中8、9の人が知らないものをパクれば、それはパクリではないという歴然たる事実が判明してしまいました。 結論。ナージャのパクリシーンを見た視聴者の9割以上は、これがパクリであることは解りません。彼らにとっては、そのシーンは「オリジナル」なのです。そして、あらゆる分野において、こういった類の「パクリ」を「オリジナル」だと勘違いしてる程度の連中が、それぞれの作品において、ちょっとしたオタク知識があれば分かるレベルのパクリについて「これは何々のパクリだ!作者はパクリ元の作者に謝罪しろ!」と鬼の首を取ったかのように騒々しくわめき立てているのが現在の日本の状況です。 パクリ論法は「神様並の知識持ってりゃ別です」けど(この言い回しもパクリです)、人間ごときがするのは、なんら建設的ではありません。
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2004/9/1 作成:鳴石ると